仕事にやりがいや面白さが感じられないとき、今の環境を変えた方がいいのか、はたまた自分自身の問題なのかわからなくなっている人もいるだろう。
過去を振り返れば、僕自身、特別仕事が嫌いだったわけではないが、
そつなく業務全般をこなせるようになった社会人4年目に差し掛かった頃、
どこかでこのままでいいのだろうかという感覚をぼんやりと抱えていた。
そんな中、自分なりに学びを生活に取り入れるようになったことで
仕事の見え方や関わり方が少しずつ変わっていった。
この記事で話すことは、やる気・意識高い系の話ではない。
学びを生活の一部に取り入れた時に起きた、ごく個人的な変化の話だ。
自分はこのままでいいのだろうか、という感覚の正体
おそらくだが、この中堅に差し掛かるタイミングで生まれるこの感覚は、職場や仕事への不満の山積みから生まれるものではない。
むしろ、日々の業務はそつなく回せている。
経験もそれなりに積み上がってきたタイミングだろう。周囲から見れば、特に困っていないように映っていたと思うし、僕自身それを言語化して誰かに伝えることもなかった。
それでも、今の状態で、毎日を過ごしていていいのだろうか。一年後はどうなっている?数年後は?という感覚が日毎に大きくなっていった。
今振り返れば、環境に対する不満というより、停滞している状態への違和感に近かったと思う。
1ヶ月前と比べ、自分の中で何かが積み上がっている感覚がない。
仕事をこなしているのに、成長している実感がない。
この状態は、忙しさや成果がその感覚を埋める代わりになってくれることはないだろう。
むしろ、考えることが減り、そつなくできている状態こそ、漠然とした違和感を引き起こすトリガーになると思っている。
この違和感は、将来への不安というより、成長していない今の状態に対しての違和感だったのだと思う。
ただ当時の自分は、その違和感をどう拭えばいいかがわからなかった。
そこで自分なりに前進できることとして、学びを生活の中に取り入れてみることとした。
通勤時間を活用する
こんな記事を書いておきながら恥ずかしい話ではあるが、当時の自分には、日常の中で時間を割いて勉強するという習慣がなかった。
経験で業務が滞りなく回せてしまっていたからだ。
処方薬の用法・用量を確認し、併用薬があればその都度チェックする。知らない薬を扱うとしても、添付文書を見れば対応できる。少なくとも、日々の業務をこなす上で困ることはない。
当時は、今ほど薬局から病院・クリニックへの情報提供や減薬提案、患者背景を踏まえたアセスメントが重要視されていた時代でもない。だから、自己研鑽に割く時間は、研修認定薬剤師の維持という最低限のレベルに留まっていた。
ただ、業務経験に頼った成長にはいずれ頭打ちがくる。直感的にそう感じ始めていたのも事実だ。
だからこそ、知識面で自分を成長させる必要があると感じるようになった。
そこでまず着目したのが、通勤時間だ。
新しく時間を捻出しようとするとどうしても続かない。数日後にはその決意も忘れ、SNSを浅く巡回し、ストーリーにスタンプで反応しながら飯を食い、気づけば意味もなく夜更かしをしているはずだ。
だからこそ、毎日確保されている40分間の通勤時間を学びの時間に充てることにした。
40分は無理
結論から言うと通勤時間まるまるを勉強に充てるのは難しかった。
言わずもがなではあるが、現実問題として、これまで習慣がない人間が毎日40分も講座を眺めるのはキツすぎる。
集中力は続かないし、そのそも毎日やるイメージすら湧かない。
案の定、数日でルールを変更した。
5分でもいいから、毎日続ける。40分を1回やるよりも圧倒的に気軽だ。
ただし何があっても守るルールを立てた。
気が乗らなくても、必ず講座をつける。
これだけである。
内容が頭に入らなくてもいい。集中できなくてもいい。
とにかく今日も触れた、という状態を作ることを目標とした。
変化の兆し
どのくらい続けてからだったのかは、正直もう覚えていない。
ただ、あるとき、ふとハッとする瞬間があった。
通勤時間になると、特に考えることもなく、いつの間にか講座をつけているのだ。
別のことをしたいとか、迷うことすらなく、聞くこと自体が当たり前の行動になっていた。
さらに、興味を持ったテーマを中心に講座を選び、一通りの講座を見終える頃にはそのテーマについて情報を集め始めていた。
ここで初めて動画講座の外に目が向いた。いわゆる勉強会へのデビューである。
患者さんへの介入の深度が変わった
動画の外に目が向くようになると、その影響は少しずつ日常業務にも現れ始めたように思う。
患者さんと向き合うとき、以前なら通り過ぎていたかもしれないポイントが、
自然と気になるようになった。
処方内容だけではなく、検査値のわずかな変化や、何気なく発せられた一言にも立ち止まるようになった。
以前であれば
処方内容を確認し、問題がなければ終わり、愛想を良く渡してお話しして帰っていただくという
確認作業に近い感覚で仕事をしていたように思う。
それが、少し大袈裟に言えば
個々に評価して仕事をしているという感覚に変わっていった。
患者さんの生活背景を踏まえた上で、
どんなリスクが考えられるのか。
そのリスクを考慮しながら、服用、治療が継続できるようにどう支援をしていくか。
そうした視点で患者さんと関わるようになったとき、
強烈に、仕事の楽しさを実感したことを覚えている。
日常業務が何か劇的に変化したわけではない。
ただ、患者さんの介入の深度が
少しずつ、だけども確実に変わっていったのだと思う。
学びを誰のためと捉えるか
様々な仕事においても、勉強したり、資格を取ったりする人も多い。
そのとき、それを「誰のためにやっているのか」をどう捉えるかは、実はかなり重要だと思っている。
患者さんのため。もちろんそれは間違いではない。
ただ、僕は100パーセント患者さんのために、という構えである必要はないとも思っている。
ここで言いたいのは、患者さんを軽んじているという話ではない。「すべては患者様のために」というスローガンを持って、学びの動機としてそのまま背負わなくてもいい、という話だ。
仕事の意味づけを最初から他人にすべて委ねてしまったら、学びはいつか義務になってしまう。
勉強することや、資格を取ることもゴールにする必要はない。自分が少し楽をして仕事をする為に勉強する。そんな捉え方があってもいいのではないかと思う。
知識が増えれば、判断が早くなり、迷う時間も減る。結果として質も上がるだろう。
患者さんへのアウトプットが良くなるのは、あくまでもその延長線上にある結果であって、最初から掲げるべき目標ではないと僕は思っている。
「誰かのために」が前面に出過ぎると、学びは義務になりやすい。義務になったものは続かない。
だからこそ、自分がほんの少し先で楽をする為に、勉強をする。これくらいの感覚でまずは試してみるのもいいのではないだろうか。
