患者からのクレーム対応をしたある日、私は管理薬剤師とスタッフに話をした。ただ、起きたことを整理し、次に活かすために必要なことを伝えた。
しかし、その言葉は否定として受け取られた。
在庫不足から始まったクレーム
事の発端は、よくある在庫不足だ。患者が来局したとき、処方された薬が揃っていなかった。薬局から電話をかけたが、つながらなかった。そのまま患者が来局し、問題が発生した。
患者は怒っていた。ただし、その怒りには正当な理由があった。
「一度電話してつながらなかったなら、また電話するべきではないか」
「過去にも同じことがあった」
「薬情に印鑑が押されていなかった」
「『こまめな連絡が欲しかったら、他にも薬局はあるから、そちらへ行けばいい』と言われた」
患者はこうも言った。「長く使っている薬局なので、なるべく変えたくない」
フィードバックとして伝えたこと
私が伝えたのは、以下のようなことだった。
まず、事実確認をした。「他の薬局へ行けばいい」という趣旨の発言が実際にあったかどうかを確認した。事実であることが確認できたので、「それは言ってはいけない言葉だ」と伝えた。
在庫不足、連絡の不十分さ、過去の不足経験、そして「他の薬局に行けばいい」という言葉。それらが重なって、患者は「誠意がない」と受け取っていた。怒号という方法を取ったことはよくないことはもちろん理解している。その上で、理不尽かというとその要素はないと判断した。
私は再発防止策を提示した。個別での在庫管理は難しいというので、「少なくともこの患者の処方薬は常備する」という現実的な運用を提案した。
これらはすべて、次に活かすための提案として伝えた。
「現場にいないからわからない」
しかし、管理薬剤師の反応は
「現場にいないからわからない」だった。
その一言で、対話の質が変わった。私が伝えたのは言動の内容だったが、管理薬剤師は、管理責任への否定と捉えた。スタッフを守るために防御の姿勢をとったのだろう。
結果として、「怒る患者=モンスタークレーマー」「クレーム=理不尽」という解釈に固定され、フィードバックや振り返りは行われなかった。
提案が否定として受け取られる構造
なぜ、提案は否定として受け取られたのか。
管理薬剤師は、行動や言動への指摘を、管理責任への否定として解釈したのだろう。「それは言ってはいけない言葉だ」という指摘は、「あなたの管理が不十分だった」というメッセージとして受け取られた。
「現場にいないからわからない」という言葉で、事実の検証を拒否した。現場にいないあなたには、この状況の複雑さや困難さが理解できない。だから、あなたの指摘は的外れだ。
この論理によって、論点は事実確認から立場論へとすり替わった。
「カスハラ」というレッテル
さらに、管理薬剤師は「カスハラ」という言葉を使った。
このレッテルは、患者の怒りを「理不尽なもの」として片付けてしまう。在庫不足も、連絡の不十分さも、過去の不足経験も、すべて「患者が理不尽だから」という説明に集約される。
昨今、カスタマーハラスメントの対策がなされている。利用者側のモラルも求められる時代だ。怒号という方法をとった患者にも問題はある。だが一方で、自分たちの仕事とそれは切り分けて考える必要がある。
患者が理不尽なのだから、スタッフの言動に問題はない。
患者が理不尽なのだから、在庫管理に問題はない。
患者が理不尽なのだから、振り返る必要はない。
「カスハラ」という言葉だけで、全てが問題ないものとして捉えてしまうと、同じことが起きてしまうだろう。
他責思考の具体的なパターン
他責思考は、実は抽象的な概念ではない。日常に溢れている。
「自分たちは忙しいから、その取り組みは難しい」
「出荷調整が続くなら、メーカーからドクターに説明してもらえばいい」
「現場にいないからわからない」
これらの言葉に共通するのは、問題の所在を外部に置くことだ。忙しさ、メーカー、現場を知らない者。すべて、自分たちの外側にある。
だから、こちらが変わる必要はない。
この他責思考を支えているのは、ある種のプライドかもしれない。
真面目に生きてきた。それなりに考えられる自分がいる。だから、自分に原因はない。
この論理は、一見すると筋が通っているように見える。しかし、それは同時に、自責思考を拒否する論理でもある。「考えられる自分」というプライドが、「考えた結果、相手が悪い」という結論を正当化できる。
他責思考のもう一つの特徴は、記憶の偏りだ。何かをしてもらったことより、してくれなかったことを数万倍も鮮明に覚えている。患者が長年通い続けてくれたことより、クレームを言ってきたことが記憶に残る。支援してくれた事案より、支援してくれなかった事案が記憶に残る。
この記憶の偏りは、他責をさらに増強する。なぜなら、「してくれなかったこと」の記憶は、「相手が悪い」という解釈を正当化するからだ。
ヒャクゼロ思考とでも呼ぼうか。
スタッフを守ることの矛盾
管理薬剤師がスタッフを守ろうとする姿勢そのものは、理解できる。現場で働くスタッフは、日々さまざまな困難に直面している。その困難を理解し、スタッフを守ることは、管理者の役割の一つだ。
上司にも寄り添いを求めていたのかもしれない。
しかし、そのスタッフを守ってほしいという姿勢が、単なる他責と結びついたとき、別の問題が生じる。
スタッフを守ることが、事実を見ないことと同義になる。
スタッフを守ることが、フィードバックを拒否することと同義になる。
スタッフを守ることが、ヒャクゼロ思考をさらに強化することと同義になる。
管理薬剤師は、スタッフを守ろうとした。しかし、その守り方では、スタッフの成長機会を奪うものになる。
問いの向きを変える
では、この構造を変えるには何が必要か。
一つの手がかりは、問いの向きを変えることだ。
貰い事故のような事例は現実問題あるとして、どんな案件でも、基本的に自分が直せる部分はあると捉えた方が次に活かせるだろう。相手のことは置いておいて、自分が直せた部分はどこだったか。
この問いは、小さく見えるかもしれない。しかし、この問いを持つことは、ヒャクゼロ思考から脱却する第一歩になると思う。
たとえば、今回の在庫不足の件で言えば、こう問うことができる。
電話が一度つながらなかったとき、もう一度かけることはできなかったか。
過去にも同じ患者で在庫不足があったなら、その患者の薬を優先的に確保することはできなかったか。
薬情の印鑑漏れは、どうすれば防げたか。
「他の薬局に行けばいい」という言葉は、どの時点で止められたか。
これらは、明確に、自分たちの行動の中に、変えられる部分だ。
相手を変えるのではなく、自分を変える
「自分が直せた部分はどこだったか」という問いは、相手を変えようとする問いではない。自分を変える問いだ。
ヒャクゼロ思考だと、相手を変えようとする。患者が理不尽でなければ、メーカーがちゃんと出荷してくれれば、現場を理解してくれる人がいれば。しかし、相手を変えることはできない。変えられないものに焦点を当てることで、変えられるものが見えなくなる。
一方、「自分が直せた部分」という変えられるものに焦点を当てることで、行動が生まれる。
この問いを持つことの難しさ
この問いを持つことは、簡単ではない。
なぜなら、「自分が直せた部分」を探すことは、自分の不十分さを認めることを意味するからだ。
現実問題として、真面目に生きてきた人こそ、これはめちゃくちゃ難しい。「それなりに考えられる自分」というプライドが、「自分に原因はない」という結論を支えている。その前提を崩すことは、今の自分を揺るがすことにもなる。
しかし、この問いを持つ習慣をつけることで、考え方は少しずつ変わる。
ただ、これは性格の問題だから、正直に言えば難しい。しかし、難しいからこそ、問いを持てることには価値があるのかもしれない。
ちなみに、マクドのポテトが規定量より少なく見えるのは、店員さんが悪いと思っちゃいます。
